07.不安と疲労感の中で!(2012.07.31更新)

一筋の明かりが見えたり、突然雲に覆われて薄暗くなったり、この川崎での説明会の後数ヶ月はそのような状況が続きました。

いよいよ闘争開始だが...

とはいっても、幸か不幸か会社の仕事は相変わらず超多忙であり、毎日深夜帰宅の状態が続きました。このような疲れ果てた状態だったので一人家で将来を悲観して悶々としたり、考え込んだりする暇が殆どなかったのは結果的には非常に救いとなりました(笑)

あっという間に1992年が終わり、いよいよ闘争開始の1993年に入りました。

1993年2月に、更生管財人により、海外不動産に関する一括売却の手続きが取られました。初回の債権者集会において議論が白熱した’不良債権の処分’に関して遂に管財人が着手した事になります。

勿論上記の手続きを進めるにあたって、管財人からは全オーナーに対して’今後の活動予定’という名目で事前に通知はされていましたが、その時点においてはいくらオーナーが異論を唱えても結果的には処理が進められるという事は明らかになっていた為、特に焦りなどはありませんでした。

ただこの一括売却手続きは、物件所在地がハワイやアメリカ本土にあった為、アメリカの連邦破産法に則って行われる、という事でしたので、その点に関しては「日本でやるわけじゃないのか」と多少戸惑った記憶はあります。

この管財人からの通知が自宅に届いてから間もなく、今度は弁護士さんから手紙がきました。

弁護士さんからの手紙

内容は大きく分けて二つでした。

その1
管財人が一括売却の手続きに入った為、今回の管財人の物件処分に対して速やかに「異議申し立て」を行う事。

その2
弁護団が日本に帰国後、今回の海外不動産の件に関してローン会社に対する全員の訴訟を完了させる事。

既に先行して訴訟を提起していた人たちに続いて、いよいよ我々も訴訟を起こすことになりました。

米国裁判所への異議申し立てを行うと同時に、ローン会社に対する訴訟提起の準備も始まり、それまであまり目立った動きのなかった闘争が一挙に本格化してきました。訴状が東京地裁に提出され、訴訟が確定すると同時に「ローン支払い」がストップしました。

それまで収入の殆どがローン返済に消えていた為、この段階でようやく(ほんの少しですが)余裕ができました。

この訴訟提起の際には、訴訟金額や原告団の規模が大きかった事などにより、弁護士事務所にはNHKをはじめとした複数メディアからの取材があり、新聞などでも取り上げられています。

この時点で既に1993年の6月になっており、半年があっという間に過ぎ去っていきました。

弁護士の方からは「できるだけ裁判の傍聴に来てください」との依頼があり、この年の7月に開かれた第一回目の裁判で生まれて初めて東京地裁に入りました。

第一回 出廷

ところで裁判というとよくテレビであるような原告と被告、それから両方の弁護士がいて証人尋問で熱いバトルが繰り広げられて、といったシーンを思い浮べる方も多いかと思います。実は私もそのような局面を予想していたので(極めて不謹慎ですが)半分ドラマを見るような感覚で参加したのですが、全く違っていました。

多分所要時間は30分程度で、その中身はというと原告・被告で双方の準備書面を説明するのですが、説明資料が多すぎるとそのまま裁判所に提出して次回までに裁判所が内容をチェックして疑問点について弁護士に説明を求めるという、ただそれだけのものでした。

これまた非常に失礼な話で恐縮ですが、「凄くつまらなかった」事を記憶しています。第一回目の裁判という事もあり、原告団はかなりの人数と気合いで臨んだのですが、正直肩透かしを食ったようで私と同様’退屈だ’と感じた人が多かったのでしょう、2回目以降は参加人数が激減しました。

実はこの事が後々ちょっとした問題に発展するのですが、その当時の我々には全く想像できませんでした。

訴訟を提起はしたものの、原告・被告で毎回準備書面を提出するのにはかなりの時間を要する為、通年で1.5~2ヶ月に1回の割合で裁判が行われました。
しかしながら前述した通り、裁判自体は非常に短時間で終わり、そのやり取り自体も極めて淡々としたものであった為、何となく緊張感がない状態が続いていたある日–。

やっぱり来た「逆提訴」

自宅に東京地裁から封書が送られてきました。

「裁判所から通知なんて、次回の裁判の日程変更でもあったのか?」と呑気に封を開けた私は一瞬ギョッとしました。

「貴方に対してXXXX社から訴状が提出されています」

こちらが訴えていたローン会社が逆に我々を訴えてきたのです。
これまでは原告という立場でしたが、今後は同時に被告という立場にもなったのです。手紙を受け取る前は、裁判の進行のペースが思っていた以上にスローだった事や失礼ながら緊張感の殆どない裁判を見ていたので、自分の問題でありながらどこか他人事のような精神状態になっていたと思います。

しかしながらこの訴状を受けて一気に現実に引き戻されました。
冷静に考えれば当然予想された事だった訳ですが、当時の私はそこまで気が回らなかった為、単純に「どうしよう、どうすればいいんだ」とやたら気が焦って夢中で弁護士事務所に電話していました。

しかし–電話が通じません。



とにかくずっと話中なのです。
あとから分かったのですが、この日大多数の原告の自宅に訴状が届き、慌てた人たちが一斉に弁護士事務所に問い合わせをしていたそうです。

やっと通じた電話の先から弁護士さんが与えてくれたアドバイスは「何もする必要ありません、想定内ですから」これだけでした。ほっとすると同時に「想定内であれば事前に教えてくれていても良かったのじゃないのか?あれだけ弁護士がいるんだから」と筋違いの不満を感じたりしていました。

しかし実はこの時、弁護団は複数の問題を抱えていたそうです。

裁判を進める上での問題点とは?

後聞いた話ですが、このときには以下のような問題が浮上していたようです。

(問題1) 今後の戦い方をどうすればいいのか?
詐欺を立証して被害回復を図る、という大きな計画はあったものの、裁判でその事を認めてもらうほどの重大な証拠が掴めておらず、今後の戦い方をどうすればいいのか戦略が立てられない

(問題2) 今回の裁判において、’原告が正義’という認識を裁判長にどうやって納得してもらうか?
訴訟を提起した数日の間に複数メディアでこの裁判が取り上げられたという話をしましたが、同時に世間では一部このような見方もされていました。

「同情の余地は全くない、単に不勉強な素人が海外投資に手を出して失敗しただけ」
「強欲だからバチが当たった」

原告側の主張が届く一方でこのような評価も当然裁判長の耳には入ってきます。もしも裁判長自身が今回の訴訟に対して「原告側の欲深さが問題ではないのか?」と思ったりすれば当然裁判の戦いは厳しくなります。

正直弁護団としては、訴訟に関連する複数の頭の痛い問題を解決する事に注力しておりその他の部分にまで手が回らなかった、というのが実情だったのだと思います。       (つづく)

NIDOJUN

記者のプロフィール

NIDOJUN
NIDOJUN
兵庫県神戸市出身

現在、外資系IT企業で銀行系大規模プロジェクトのプロマネを本業とするかたわら、副業として国内不動産3棟(30室)区分所有1戸を経営するサラリーマン大家として活動中。

1988年に最初の不動産投資を行うが、国内物件と合わせて所有していた海外物件がバブルの崩壊と共に不良債権化、その後10年以上は大家としてのキャリアは空白となる。

2010年より再び不動産賃貸業を開始するが、最近加熱気味の海外不動産投資ブームを見て、かつて自分が失敗した体験を参考にして欲しいという思いがこみ上がり、アジア太平洋大家の会にてコラム執筆を決意。

また2011年夏から開始したブログでは不動産投資をはじめとしてネットビジネス、旅行、映画、ビジネスマインドなどさまざまなテーマで情報発信中である。

今後は’地域や時間に縛られない自由な大家業’というコンセプトで
’フリーエージェント大家’の実現を目指している。
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