09.風が吹いてきたぞ(2012.12.01更新)

1994年6月~1995年6月までは、ほぼ1ヶ月に2回の割合で東京地裁に裁判の傍聴に行っていました。

1995年の7月に、原告団の中で以下の行動計画が発案されました。
実際には弁護団の方から原告団の代表の方に相談があり、原告団側で討議された結果、実施する予定となったものです。

まじでやるの!?デモ行進

・原告団は上記の4社に対する責任追及の為、以下の行動を実施する

(1)該当4社の社会的責任を追及すべく、各社の本社前でのデモ活動、ならびに本社人事部への面談、抗議文の提出を行う

(2)さらに東京地裁・裁判長宛に、第一弾訴訟ならびに第二弾訴訟に関する原告団の窮状を訴える手紙を自筆で送付する

(3)上記(1)、(2)を実施する背景は以下の通り、第二弾訴訟の対象企業は社会的な信用も高く、影響力も大きい企業ばかりである。一般的には今回のような不正に関与しているとは考えにくいが、我々が直接これらの会社に訴えかける事によるインパクトは相当大きいものがあり、マスコミなども無関心ではいられなくなる。マスコミで取り上げられればそこを突破口として、広く世論に訴えかける事も可能となり、原告団にとっては追い風となる可能性は高い。

正直最初にこの案を聞いた時は少なからず「冗談じゃない」と思いました。相手は日本を代表する超有名企業ばかりです。それらの企業の本社の前で、社員が出勤してくる午前8時~9時の間にデモを行うなどと言う事に関しては、「とてもじゃないが出来るわけがない」事のように思われました。

とりあえず、代表メンバー数名が本社前でのデモ活動の計画を立て、具体的な回数や日程を決定しましたが計画は立ったものの、実際にデモを実施する日が近くなってくるにつれ、心が重くなってくるのが分かりました。
はっきり言って「出来る事ならやりたくない」という気持ちが大部分を占めていました。恐らく大部分のメンバーが私と同じ気持ちでいたのではないか、と思います。

「多くの人が集まってくる場所でシュプレヒコールなどできるのだろうか」「通行人から白い目で見られたり、野次を浴びたりするのではないだろうか」「もしも知り合いに見られでもしたらカッコ悪い」などなど、ネガティブな思いばかりが浮かんできます。

しかし、このようなネガティブな発想をまったくと言っていいほど感じていない人たちがいました。

原告団の中の女性メンバーです。

女性の強さを実感!!

男と言うのは社会的動物であるが故に、いわゆる’権力’に対してはどうしても及び腰になってしまいます。ましてや闘争の相手が超一流企業であれば、サラリーマンのメンバーなどは劣等感が勝ってしまい、まるで自分がこれらの企業を批判する事が間違っているかのような錯覚に捕らわれてしまいそうになります。

しかし、女性にはこういったメンタルブロックの要素が殆どなく、「正義は正義、悪は悪」という至極当たり前の考え方に則って行動する事ができます。

その結果–。

第一回目のデモ行動を行った際に、男性メンバーの殆どが羞恥心とビビりで殆ど行動できていなかった様子を見るに見かねた女性メンバー数名から「これじゃあデモを行っている意味がないので、次回以降はシュプレヒコールは女性メンバーが行います。男性メンバーの方たちは声を出さなくて結構ですから抗議チラシを対象企業の社員の方に配って下さい」と提案され、以降は女性メンバー主導のもと、企業に対する抗議行動を行う事になりました。

この時ほど「いざという時の女性の強さというものは男性の比などではない」と言う事を実感した事はありません(笑)。
恐らく男性だけでは決してうまくできなかったはずです。

企業に対するデモ活動においては、回数を重ねていくにつれて相手企業側社員の反応が確認できるようになり、非常に興味深いものがありました。

実感したデモ行進の威力

まず初回のデモ活動の際には、相手企業は完全に意表を突かれた形になってしまっているのでチラシなども4~5人に一人は受け取ってもらえます。チラシを見て初めて自分の勤めている会社が訴えられている事に気付き
ギョッとした様子でこちらを見る人がいたり、完全無視を決め込んだり、とにかくこちらを睨みつけながら会社に入っていったり、反応はさまざまでした。

しかし2回目以降のデモでは、ほぼ全ての社員がチラシを受け取ってくれなくなりました。おそらく企業側から、「先日の抗議活動は根も葉もない話なので、当社社員は一切無視するように」などといった通達、指導があったと思われます。

しかしさらにデモを続けていくと、大きくふたつの反応に分かれ始めたのです。

まず第一の反応は完全無視です。こちらをチラ、とも見ずにスタスタ歩いて行く人々が全体の8割程度でした。しかし残りの2割の人はこちらを見て、チラシを受け取ってくれるのです。

さらに私の場合は1回だけ経験したのですが、いつものようにチラシを通行人に渡した際に、相手の方に

「確かにニュースでも見ましたが、本当にうちの会社がこんな事をしているのですか?本当だとするとショックですねえ」

と話しかけられ、ビックリした事がありました。とりあえず「今裁判で係争中ですのでいずれはっきりすると思います」と答えるのが精いっぱいでした。

被告企業の殆どの方は反応を示していませんでしたが、その中でも一部の方々が自分なりに疑問を持ち、「事実を知りたい」と反応を示し始めてくれた事は大きな驚きでしたが同時に喜びでもありました。

「継続は力なり」を実践し、結局デモ活動に関しては1995年の第一回目から1999年の第16回まで、5年間に渡り実施する事となりました。

お次は手紙作戦

このデモ行動と時期を同じくして実施したのが裁判所に対する各原告からの封書、もしくはハガキの送付活動です。いわゆる手紙を送った訳ですが、その効果に関しては正直半信半疑なところがありました。あまりにもアナログな手法であり、数百人から手紙が送りつけられる事により裁判所側がどのように感じるのか不安もありました。

しかしながら結果的にはこの行動も裁判には有利に働きました。手紙の内容は原告各人の判断に委ねられた形となった為、裁判にあたっての裁判所への要望を切々と訴えた人や、自らの反省を書いた人、あるいはマンガ形式で風刺した人など、その内容は本当にオリジナリティに溢れたものであり、否が応にも裁判所側に読ませる力が働き結果的にはそれぞれの原告の思いが届いたようでした。

その事は裁判所側の態度にもはっきりと現れました。何回目の裁判かは忘れましたが、或る時裁判長が原告が送付した手紙を携えて登場し、「裁判はあくまでも公明正大に行いますが、原告の皆さんの数百通の手紙を読んで皆さんのこの裁判に対する思いは理解しました」といった主旨の発言を(1回だけだったと思いますが)行って、多少の物議を醸した事があったと記憶しています。

さらにその後の傍聴において、傍聴席から人が溢れて入りきらなかった際に、裁判長判断による異例の入れ替えを行い、法廷に来ていた全員に裁判を傍聴する機会を与えてくれた事もありました。恐らく手紙を送っていなければ、ここまで原告側に配慮した対応を裁判所が取ってくれる事はまずないと思います。

この頃から少しずつではありましたが、原告団が継続実施していた活動に風が吹き始めました。

響き始めた相手弁護士の不協和音

まず裁判ですが、被告企業側の弁護団の中での意思疎通が徐々に取れなくなってきている事を感じました。

事前の準備不足なのか、裁判に臨むにあたっての方針の違いなのか、恐らくその両方が原因であったと思いますが各企業間の弁護士の答弁で微妙な食い違い、見解の相違が出始めました。

係争終了後に原告弁護団の方から打ち明けられたのですが、実はこの不協和音こそ、第二弾訴訟を提起した際に弁護団が狙っていた事であり、その後の裁判の進行に大きな影響を及ぼす事となりました。

被告企業の4社はいずれも当時の日本を代表するような一流企業でしたが、裁判に対する思惑、決着の仕方などはそれぞれ思いが違っており、その事は当然ながら裁判に対する弁護団の姿勢に如実に表れてきました。

会社の規模が大きく、それぞれ大きな社会的責任も背負っている企業が一斉に訴えられたからといって、必ずしも一体となって結託する事はなく、むしろ’自分のところだけは’という思惑に従って独自に判断・行動をするに違いない、と弁護団は予想した訳です。そしてその予想は見事に的中しました。

4社のうち、A,B,Cの3社については自社の潔白を主張していましたが、残りの1社(D社)に関しては徐々に答弁内容がトーンダウンし、明らかに「和解」の方向に方針を転換し始めました。

そしてその企業側の方針転換はデモ活動にも影響を及ぼしました。

答弁内容が歩み寄りの方向になってきたD社に対してのデモ活動をいつものように実施しようとしていた矢先に「本日のD社に対するデモ活動は実施しません、その代わりに参加できる人はD社の本社前に集合して下さい」という連絡が回ってきました。

「何かあったのだろうか」と不安に感じつつD社の本社前に行くと、抗議文を携えた原告団代表と弁護士の代表の方がD社の中から出てきた社員の方数名と会話し、その後ビルの中に一緒に入っていきました。

およそ30分後にビルの中から出てきた原告団代表の方から、「今は理由は言えませんが、今後D社へのデモ活動は一旦休止します。」との発言があり驚かされました。原告団と企業側で個別交渉が持たれ始めた瞬間でした。

この時原告弁護団は「この裁判は勝てる」と確信したそうです。
企業が利益追求をしていくにあたって最も恐れている、避けたいものは何か?
それは「悪い評判・スキャンダル」です。実際にデモを行っている我々以上に、企業側のデモ活動に対する拒否反応は強く、D社との交渉の席では「裁判に関する原告団との話し合いには応じるので、デモ活動はやめて欲しい」という具体的な要望があった、との事です。

A社、B社、C社からもこの時点において要望はなかったものの、継続されるデモ活動に対する困惑が大きくなりはじめていました。同時に、被告側企業間では徐々に一体感がなくなり始め、以降の裁判の中でも独自の判断に従った答弁が目立つようになってきました。

有利な展開になってきた

こうなるとさすがに全体の弁護士の数がいくら多くても、一枚岩の原告弁護団には勝てるはずがありません。
裁判の進行は明らかに原告団に有利に展開し始めました。

こうなってくると全てがうまく回ってくるもので、新聞・雑誌に掲載される裁判の記事も原告団に対する批判のトーンは影を潜め、「日本で初の貸し手責任追及なるか?」などといった好意的とも取れるタイトルで掲載されるようになってきました。

さらには「貸し手責任追求」という話題性と金融機関が訴訟の被告となっている点から、旧大蔵省への陳述も実施され、当時の久保大蔵大臣に対して要請書の提出も実施されました。

このように徐々に追い風が吹き始めた1997年後半、最後の山場ともいうべき証人尋問の場が迫ってきました。

証人尋問は原告側・被告側それぞれから数名の候補者を選び出し、証人尋問・反対尋問を実施しました。

原告側からはのべ9名、被告側からはのべ4名の証人が尋問に臨みましたが、この局面ではついに不動産会社とリース会社の元社員の計3名が原告側証人として証言台に立ちました。原告側弁護士の長期に渡る粘り強い説得が功を奏して、海外不動産販売当時の経営状態や不動産会社とリース会社間の連携状況、さらには第2弾訴訟の被告企業との協業体制などについて、販売と融資の当事者としての立場から当時の実態を証言して貰う事ができたのです。

原告側、被告側、双方にとって「運命を左右する」尋問となりました。     (つづく)

NIDOJUN

記者のプロフィール

NIDOJUN
NIDOJUN
兵庫県神戸市出身

現在、外資系IT企業で銀行系大規模プロジェクトのプロマネを本業とするかたわら、副業として国内不動産3棟(30室)区分所有1戸を経営するサラリーマン大家として活動中。

1988年に最初の不動産投資を行うが、国内物件と合わせて所有していた海外物件がバブルの崩壊と共に不良債権化、その後10年以上は大家としてのキャリアは空白となる。

2010年より再び不動産賃貸業を開始するが、最近加熱気味の海外不動産投資ブームを見て、かつて自分が失敗した体験を参考にして欲しいという思いがこみ上がり、アジア太平洋大家の会にてコラム執筆を決意。

また2011年夏から開始したブログでは不動産投資をはじめとしてネットビジネス、旅行、映画、ビジネスマインドなどさまざまなテーマで情報発信中である。

今後は’地域や時間に縛られない自由な大家業’というコンセプトで
’フリーエージェント大家’の実現を目指している。
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